奈良時代・吉備中之圀の母夫人と富ひめ
骨蔵器や出土物、正倉院の文書や中国の墓誌などを手がかりに吉備真備の出身地・下道(しもつみち)の女性について、その実像に迫る!
「今一人ひとり、私たちみんなが歴史を作っていることを、この書物で伝えたかったのです」
60年以上にわたり考古学に携わってきた著者が、西日本災害を契機に執筆。
この本は、西日本豪雨災害の被災者の方々に、少しでも心安らぐように別の世界を届けることができたらと、書き始めたものでした。
しかし、まだ大変な日々を送られている方々の多い時に、このような雑文を贈ることには逡巡もありました。
苦しい事、悲しいことは心の傷となって残るもの。
しかし、それを経験しない人々に、その苦しさがいかに伝わりにくいことか。
現に80年にも満たぬ前の世界大戦での日々の困難な生活や戦場の状況は、現在を生きる人にどれほど理解されていることか。
この思いは、真備町の場合では倉敷市合併前の町史編纂をされた方々にも通じる思いではないでしょうか。
その町史には水害に関して、多くの頁が割かれています。
古い歴史も同じ。
今も一人ひとり、私たちみんなが歴史を作っていることを、この書物で伝えたかったのです。
(著者からのメッセージ)
目次
一、「母夫人」をめぐって
1、母夫人を知るにはまず孫から
2、母夫人の登場 骨蔵器の発見
3、奈良時代の「夫人」という呼称
4、骨蔵器銘文中の「銘」字とは
5、天武・持統朝の確立まで
6、吉備真備祖母の「墓誌銘」作者は誰か
7、6~7世紀頃の祖先たち=矢田部に関わる古墳や遺跡
8、地名(八田=矢田)と矢田部と石棺材
9、遺跡群の意味する世界
10、改めて「母夫人」とは
二、白髪部毘登富比賣の復活
1、40年昔の電話
2、電話までの道のり
3、新旧釈文の対比
4、太宰府宮ノ本遺跡の墓地買地券
5、出土年次と出土地の推定
6、同文買地券が3面あった
7、周辺の火葬墓について
8、白髪部毘登富比賣とは……虚像の世界で
三、真備の文字か「楊貴氏の墓誌」─偽物でない証明へ─
1、 本体が失われた資料
著者プロフィール
- 間壁 忠彦
1932年。岡山市生まれ。
岡山大学法文学部法学科卒業後、1954~1973年(財)倉敷考古館学芸員、1973~2006年同上館長。
2006~2015年(財)倉敷考古館学術顧問。著書(単著)は『倉の中から倉敷見れば』(手帖舎、1990年)、『考古学ライブラリー60 備前焼』(ニュー・サイエンス社、1991年)、『石棺から古墳時代を考える』(同朋舎出版、1994年)。
2017年没。
- 間壁 葭子
1932年岡山市生まれ。
岡山大学法文学部史学科(日本史専攻)卒業。
1956~2015年(財)倉敷考古館学芸員。
神戸女子大学教授を経て、同大学名誉教授。明治大学で論文博士(歴史学)。著書(単著)は『吉備古代史の基礎的研究』(学生社、1992年)、『古代出雲の医薬と鳥人』(学生社 1999年)、『生活意識の考古学』(間壁葭子先生喜寿記念論文集刊行会『考古学の視点』中の分冊、2009年)。
間壁忠彦氏との共著に『岡山の遺跡めぐり』(日本文教出版岡山文庫31、1970年)、『古代吉備王国の謎』(新人物往来社、1972年)、『日本史の謎・石宝殿』(六興出版、1978年)、『吉備古代史の未知を解く』(新人物往来社、1981年)、『日本の古代遺跡 23 岡山』(保育社、1985年)、『倉敷考古館研究集報 1~22 号』編著(1966年3月~2016年6月)。
※上記内容は本書刊行時のものです。